沖縄戦後教育から見る沖縄尚学の教育

沖縄尚学高等学校
創立35周年記念対談

「文武両道」の
グローバル進学校
世界に羽ばたく人材を
育む

創立35周年を迎え対談する名城政次郎理事長と名城政一郎副理事長

創立35周年を迎え対談する名城政次郎理事長と
名城政一郎副理事長 (右から)

「知・徳・体」21世紀型のシステム築く

沖縄尚学高等学校の創立から35年ですね。

名城政次郎理事長 創立以来35年、沖縄尚学も進化しましたね。社会の変化に先駆けて対応してきた結果です。ただし、「学力と人間力を伸ばすたくましい進学校」という理念は変わっていません。

名城政一郎副理事長 沖尚の目指すところが、現在の「グローバル進学校」へと進化する過程で、目標も「日本で通用する学力と人間力」から「世界で通用する学力と人間力」へと進化しました。しかし、「学力と人間力」を伸すという理念は全く変わっていません。この理念には普遍性があると思います。

理事長はなぜ「学力と人間力」を沖尚の理念にしたのですか。

理事長 私は常に受験至上主義の風潮には疑問を持っていましたが、予備校での経験から「受験勉強をとおして人間力を伸ばすことができる」と考えていました。それで「学力と人間力を伸ばすたくましい進学校」としたわけです。そして、特に旧帝大など本土の難関大学への「流れ」をつくることを目標にしました。大学進学の点で教育はまだ本土に後れを取っていましたし、当時の沖縄は、本土の難関大学への進学希望者の多くが県外の進学校に「留学」していました。需要はあったわけです。ですから尚学院の実績を踏まえた「沖縄でもできる」という私の呼びかけに応えてくれる生徒、父母がいたわけです。

「たくましい」進学校とした理由はなんですか。

理事長 勉強が得意な秀才は「ひ弱」というイメージを払拭したかったからです。これも私自身の体験から生まれた考え方で、当時の沖縄の人々に受け入れられたと思います。

創立当初は理事長も授業をしておられたんですか?

理事長 コマ数は多くありませんでしたが、「必ずできる」と確信して、私が先頭に立って引っぱりました。通訳、翻訳、米留受験、大学受験の指導などそれまでの経験を生かして、実際に役立つことを意識した受験英語を教えようと努めました。特に1期生、2期生には、特別授業として、米人講師をアシスタントに主に英作文(和文英訳)や英文法を教えていました。アメリカ人のMr.ブライスンやイギリス人のMr.ビショップなど、当時の沖尚生なら覚えていると思いますよ。

副理事長 英語弁論で1期生の平良佳代さんは県で優勝、2期生の赤嶺芳美さんは県と九州で優勝しましたが、2人とも理事長が原稿のチェックからスピーチの仕方まで、直接指導したんですよね。

理事長 よく覚えてますよ。2人とも素直で、英語が好きな生徒でした。発音もきれいで。

副理事長 卒業生、特に1期生、2期生の多くは、理事長の授業や言葉そして真剣な姿勢が、その後の人生の糧になったと言います。「怖れず侮らず気負わず」がその最たるものですが、「さりげないたくましさ」「さりげなく勝つ」なども、理事長の人生体験を踏まえた言葉です。1期生、2期生に聞くと、「大人」が「本気」で自分たちに話してくれたと感じたそうです。

理事長 あの頃の私は、毎日「殺気立つほど」真剣で、笑う暇もありませんでした。予備校尚学院の実績は十分でしたが、沖尚はできたばかりで、進学校として社会に認知してもらわなければならない。老朽化した校舎の建てかえ、10年以上昇給がなかった旧沖縄高校の職員の待遇改善なども急務で、やるべき課題が山積していました。しかし、不思議と「できない」と思ったことはありませんでした。今だから言えますが、良くやれたと思います。

副理事長はもともと沖尚で仕事をするつもりだったのですか。

副理事長 私自身は、大学院を終えてアメリカに留学するつもりでしたが、2年だけという約束で尚学院と沖尚で働くことになり、気が付いたら20年たっていました。

理事長 アメリカに留学する費用も貯められるし、一石二鳥だと話したら、喜んで帰ってきました(笑)。

副理事長 大学院を出たばかりでしたが、理事長の思いを感じながら仕事をするうちに「大変だけどやりがいがある」と思えるようになりました。1985年からですから、沖縄尚学の1期生からかかわることになりました。幸運でした。

理事長 副理事長は私の長男ですが、この仕事は向き不向きがあります。試しに任せてやらせてみたらどうにかできそうなので、好きにやらせてみました。高1から浪人生まで授業を担当したり、テキストを作ったり、授業を改革したり、シラバスを作ったり、新たにコースを設置したり、いろいろと苦労しているようでした。本人にとってはいい経験だったと思います。

副理事長 毎日、できないこと、わからないこと、初めてやることが多くて、自分の100%以上を出さないとやっていけなかった。必死でした。大学と大学院で経済学をとおして「学ぶこと」は習慣化していたので、それが良かったと思います。尚学院では、伊芸先生(故人)や榎先生、奥間先生、當真先生、豊見山先生などいい先輩にも恵まれました。沖尚では、米盛先生(故人)、中玉利先生、渡久地先生、比嘉久先生(故人)など多くの先生方がサポートしてくれました。感謝しています。

90年代のバブル崩壊後、 沖尚の方向性が変わったそうですが、なぜですか。

副理事長 社会が教育に対して求めるものが変わったと思ったからです。日本だけではやっていけない時代が来る。今にしてみれば、日本だけでなく、日本でも世界でもやっていける学力と人間力を育み、国内外の大学への進学を目指すという現在の沖尚の在り方がこの時に決まったといっていいと思います。

理事長 人間力という言葉を沖尚の教育目的として使ったのは私ですが、その内容をわかりやすく説明したのは副理事長でした。副理事長は定義したり、理論化してシステムを作ったり、「当たり前」を疑って考え抜くのが好きみたいですね(笑)。

副理事長 バブル崩壊後、「教育の真の目的は何だろう」と思い悩んだあげくたどり着いたのが理事長の「人間力」でした。理事長は戦後間もないころ民政府で法廷通訳官をしていて「法廷に出ると普段は使ったことのないような英語が出てくる、普段の10倍の力が出る」と言っていました。私は、これが理事長の意味する人間力で、「本当に必要としている人のためにという良い思いで自分の能力を使うとき、人は普段の100%以上の力が出る」と解釈し、わかりやすくして教育現場で使いやすくしました。

理事長 終戦直後は、良心的な人でも生活に困って米軍から生活必需品を手に入れる「戦果」を挙げないと生活できないような時代でした。確かに私は、どうにかしてこの人達の罪を軽くしたいと思って通訳をしました。初めて法廷で通訳をしたときに"kick"と訳すべきところを"kill"と訳し、「被害者は生きてますよ?」なんてこともありました(笑)。翻訳、英語塾そして法廷での通訳、英語漬けの毎日でしたね。

副理事長 現在は、人間力を、潜在的な力を顕在化させる自己実現力と「周囲の人を安心させ喜ばせる(名城理事長の言葉)」社会貢献力と定義し、その習慣化を沖尚の教育活動の目的としています。

90年代の沖尚はスポーツの分野でも注目を集めましたね。

理事長 まず、柔道部が全国制覇を成し遂げました(91年)。99年には野球部が春の甲子園で優勝しました。どちらも多くの皆さんに喜んでもらえました。これらの成果は監督が本気で全国制覇を目指し、選手たちがそれに見合った努力をした結果です。経験と高い志を持った指導者が本気でやれば、生徒は目標にふさわしい努力をする。これは勉強も同じですね。

副理事長 特に野球に対しては理事長の思い入れが強かった。理事長自らノックをすることもありました。監督も選手も「カリーをつけてもらえる」と喜んでいました。理事長は自他ともに認める負けず嫌いで、試合になると「負ける気がしない」と自信満々、ところが負けると機嫌が悪くなって大変でした(笑)。

副理事長は2004年から米国の大学で教鞭をとりながら博士号を取得されましたね。理事長としては、約2年半、副理事長が仕事を離れることに不安はありませんでしたか。

理事長 多少は不安もありました。アメリカで昼は大学で教えて夜大学院に通うわけですから。でも、沖縄に戻すときの約束でしたし、本人がそれだけの資質を持っていたので、後で後悔させたくなかった。副理事長がいない分、私は大変でしたが、私も人間力でどうにかしました(笑)。

副理事長 私が46歳の時です。確かに、アメリカでは毎日必死でしたが、この時の研究と体験が現在の沖尚に生かされています。多文化を体験するとても素晴らしい経験になりました。

理事長 博士号がとれなくても沖尚という職場があるのだから心配するなと言って安心させようとしたら、笑いながら「自信がある、心配しないでください」と言われ、どうにかするだろうと送り出しました(笑)。

副理事長がアメリカから戻って、沖尚の教育は変わりましたか?

理事長 副理事長の発案でいろいろなことが始まりました。多少の不安はありましたが、本人が真剣なのでまずはやらせてみました。
私は理想も大切だが現実の社会はまだ副理事長の考えに追い付いていない。いい教育をしているからと言ってそれがすぐに評価されるわけではない。社会はまだ、進学実績で評価しているなどとアドバイスしました。

副理事長 私も日本の大学への進学をおろそかにするつもりはありませんでした。ただ、単に目標大学に合格させるのではなく、生涯学び続ける力、日本でも世界でも通用する資質を身に着け、大学進学後どこでどんな仕事についてもやっていけるようにすることを最優先に考えました。

理事長 アメリカから帰ってからの副理事長の提案はユニークなものばかりでした。英検や習得目標型授業、70分授業はまだしも、空手の必修化、国際バカロレアの導入などは、難しいのではと思ったのですが、副理事長は私に似て頑固なところがあって(笑)。でもやってみたらできた。現場の先生方と生徒が労をいとわず、当たり前のように頑張るんですね。感心させられます。

副理事長 目的、根拠、システム方法などを具体的に説明すると、教頭、主任以下すべての先生方がそれぞれやり方を工夫し、実践してくれました。生徒もそれに応えようとしています。空手は沖縄県空手道連盟の協力が大きいですね。保護者の理解と協力が得やすいのも助かります。

理事長 空手や英検、ボランティアなどに取り組むことで、国内外の大学への進学実績も伸びてきました。バカロレアも世界平均より取得率が高くなっています。海外協定校も35校に増えました。米国大学とは指定校推薦制度もできました。グローバルな学力と人間力を伸ばせる体制が着実に出来上がってきた。将来が楽しみですね。今はやってよかったと実感しています。

副理事長 理事長にはいろいろ心配をかけましたが、私に様々な仕事をさせてくれ、困ったたときには常に支えてもらいました。感謝しています。今後も、名城政次郎理事長の「学力と人間力を伸ばすたくましい進学校」という理念に沿って、職員・生徒・保護者とともに歩み続ける決意です。

沖縄伝統空手の段位取得にも力を入れている

沖縄タイムス2019年3月15日掲載より