理事長に聞く我が校の歩み 第一話

2019.09.24

理事長に聞く我が校の歩み

第一話「発足前夜」

沖縄尚学高校の前身、沖縄高校の一九六〇年の運動会の八ミリフィルがインターネット上で見られることをご存じですか。
(沖縄アーカイブ研究所)。場所は今とまったく同じ国場の丘、周囲は畑で生徒や家族の服装に時代を感じます。

戦後十五年目にあたり、その頃の生徒は沖縄戦の頃、〇歳から三歳の乳幼児です。
親が必死の思いで戦場となった沖縄で生き残り、育てた命が躍動している姿があります。

この映像が撮影された頃の沖縄にはまだ公立高校が十分にはなく、沖縄高校には中学を卒業した生徒の進学先としての役割があり、時代の要請に応えていたことがわかります。しかし、一九七二年本土復帰を境に公立高校が増設されると、既存の私立高校はそのあおりを受けることになりました。
現に沖縄市にあった中央高校は入学者激減による経営破綻をきたし、一九八四年廃校になってしまいました。
因みに、中央高校の職員は県が採用試験を受けさせた上で公立校に配属し、救済したという歴史があります。

その当時の沖縄高校も中央高校と同様に入学を希望する者が漸次減少し、一九八〇年頃とうとう廃校がほぼ決まりとなりました。
十年間職員の給与は上がらす、ボーナスはなく、校舎も老朽化・危険物化し、多額の負債も抱えていたそうです。

そういう逼迫した大情況にある沖縄高校を救ってほしいという要請が名城政次郎氏に何度もあり、受諾すれば経営する「尚学院」まで共倒れするのではないかと、職員全員が危惧し反対したという。
しかし、名城氏は熟慮の結果、廃校寸前の沖縄高校に救いの手を差し伸べるという結論に達したのです。

一九八三年に「たくましい進学校」として沖縄高校を新しく沖縄尚学高校として発足することが、両日刊新聞で発表されました。
募集を開始すると、応募者が殺到。初年度にして三〇二名という新入生を迎えたということは、沖縄県の代表的予備校である「尚学院」の信用と実績のお陰であるといっても過言でありません。
つまり、沖縄尚学高校は「尚学院」が無ければ誕生し得なかったということになります。

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