理事長に聞く我が校の歩み 第二話

2020.02.07

理事長に聞く我が校の歩み

第二話「その人の生活があるから生活が成り立つようにしてあげないといけない。」

お金の関係は本当に恐ろしい状況でした。定員を大きく割って収入は非常に厳しい。借金もある。
出費の方も、校舎は建て替えの必要がある。職員が七十名いて、給料は十年も上がっていないし、ボーナスも出ていない。
これをどうして引き受けられたのか、あのとき何を考えていたのか、自分でもわかりません。天がやらせたんじゃないでしょうか。
「やります」と返事をして、ぐうぐう眠っておりました。今だったら考えるだけで眠れなくなりますよ。
ひとつ覚えているのは、それまで積み上げてきたもの全部でやるしかない、ということです。片足で入るようではいけない。とことんやる。
名前も沖縄尚学院高校としました(当時)。「尚学院」と入れたのは、尚学院は本気ですよ、ということを示すためです。

引き受けの返事をしたのが昭和五十七年十二月二十七日。試験は二月にやるので、残りは二カ月足らずです。
引き受けと募集開始について発表を行ったところ、案の定、問い合わせの電話が何十本もありました。
「本気でしょうね、二〜三年で辞めるんじゃないでしょうね。」私は答えました。
「辞めませんよ。名前にも尚学院と入れています。とことんやりますから。」
そうしたら、二百名の募集に受験者が三百名以上ありました。

外間:信じられないほどの信頼感ですね。もうひとつお聞きしたいことがあります。
引き受けの際に首切りをしなかったことが有名ですが、なぜそのような決断ができたのでしょうか。
現代なら当然、在籍していた職員をリストラし、尚学院の先生で教えればいいとなる。そうした意見もあったのではないですか。

もちろんありました。それに最初は、四十名は引き取っていただくあてがある、という話だったんです。
ところが、この話は無かったことになりました。「そういう約束はしてません、先生の方で全部面倒を見てください」と。
それでも、そうなったときに、この人たちを辞めさせるということは、生活できない人が出るということです。
理想を言えば変えたいこともたくさんありましたが、しかたがない。引き受けるしかありませんでした。
担任をお願いして、受験指導は尚学院の先生にやってもらうことにしました。
当時は苦しい状況が続きましたが、それでも昭和五十八年四月に引き受けて以来、一度も給料やボーナスの欠配をせずにやって来ることができましたよ。

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